『指輪』
2009年 05月 28日
リスボン。
曇天、微風。
幼なじみがどういう人生を送ったのか…それが知りたいのです、と、中年に入りかけたその商人は溜息混じりに言った。
…幼なじみというのは没落仕掛けた名門、アルマ伯の令嬢。
その商人は、父親がアルマ伯の所に出入りしていた関係で、アルマ伯の娘とは幼い時からの付き合いだった。
だが、今からもう10年も前に彼女はフランスへと嫁いでいった。
いわゆる、政略結婚であったという…。
だが、つい先日、その幼なじみが死んだ、と言う噂が商人の耳へと入ってきた。
それが、今回の私の「飯の種」と言うやつだ。
まだ独り身だと言うその商人に、もしかして彼女のことをずっと思っていらっしゃったのですか、と、ロクサーヌが神妙な面持ちで言った。
商人は、いいえ、まさか、と首を振った。
それなら、どうしていまになって、と、ロクサーヌが続ける。
けじめのようなものです、と歯切れ悪く、商人は答えた。
そして、少し寂しそうに、元より身分違いの話ですからね、と笑った。
若い頃は美形で通っただろう、その男は、それ故に逆に疲れ果てて見える。
私は小さく頷くと、前金を掴んで、立ち上がった。
たとえ、どんな話であっても、私にとっては、大事な仕事である。
恋物語であれ、宝物探しであれ、金になる仕事なら何でもするのが、私のやり方だ。
と…戸口に向かう私とロクサーヌの背中に、商人が、一つお願いがあります、と声を掛けてきた。
振り返った私達に商人は、分かれ際に彼女に贈った指輪…その指輪がどこにあるのか…それを確かめて欲しいのです、と、そう言った。
私は頷いた。
久々の地中海を、一路マルセイユへ。
いつもながらにこの地中海というのはひどく優しい海だ。
かつてローマ人達はこの海を『我らの海』と呼んだそうだが、1500年以上経った私達にとっても、『我らの海』というのはしっくり来る名前のように思う。
穏やかな波を切って、さして障害もなく、マルセイユに到着、
いつものように酒場の親父の所に顔を見せて、かくかくしかじかと事情を説明したのだが…親父は眉を曇らせた。
どうした、と尋ねると、マルコ、お前また湿っぽい話を引き込んできたな、と声を潜め、まあ、有名な話だから、その辺の娘さんにでも聞いてみるがいいさ、とグラスを磨き始める。
私は、有名な話ね、と口を曲げ、まあ、試してみようか、と広場の方へと歩き出した。
そのあたりの娘にでも聞いてみろ、と言うのも乱暴な話だ。
私は半ばやけくそ気味に、道行く花売りの少女を呼び止めて、バラの花を一本買い求め、アルマ伯爵令嬢の話ってのを知っているか、と彼女に聞いてみる。
すると、その花売り娘は、アルマ令嬢の話なら知ってますよ、とあっけなく頷き、有名な話でしょう、と笑った。
私は一瞬口を半開きにしたが、すぐに気を取り直して、詳しい話を聞かせてくれないか、と彼女に頼む。
と…私達の横を、冷たい、甘い、良い香り、と謳い文句を響かせながら、サフラン水売りがすり抜けていった。
花売りの少女が水売りの背中を目で追う。
私に、良く、見えるように。
額に一瞬青筋が浮かんだが、私は努めて平静を装い、サフラン水を一杯買い求めて、笑顔で花売りの少女に手渡す。
メルシィ、と笑顔で言うと、花売りは話を始めた…。
その話によると、何でも、令嬢は輿入れしたのはいいものの、その新郎を暗殺で失ってしまったのだという。
と…聞いていたロクサーヌが、あ、その話は知ってますよ、と手を打った。
ね、有名ですよね、と、町娘が頷き返す。
ロクサーヌが、ええ、すっかり忘れてた、とちろっと舌を出して笑う。
私はまた、一瞬口を半開きにし、そして、少々憤慨すると、知ってるなら最初から教えてくれ、と尖った声を上げた。
ロクサーヌは、アルマ伯爵の名前は忘れてたんですよ、と澄まして返し、町娘と、あのくだりがどうとか、このくだりがどうとか、若い娘に特有の取り留めのない話をし始める。
私は深い溜息を一つすると、観念して二人の話に耳を傾け始めた。
…結局の所、件の令嬢はその後女子修道院へと逃げ込んだらしい。
修道院は、俗世とは隔絶しているが故に、避難場所としては大変上等の場所だ。
だったら、その修道院を探してみればいいだろう。
私は二杯目のサフラン水を啜る二人の話に割り込むと、彼女がどの修道院に入ったのか知らないのか、と尋ねる。
二人は顔を見合わせたが、そういえば、そうよね、と言うばかりで、修道院の名前は出てこない。
眉間に皺を寄せると、ロクサーヌが口を尖らせて、そんな噂に出てくるようじゃ、避難場所にもならないじゃないですか、と言う。
もっともだ。
私が一瞬身を引くと、ロクサーヌと娘は、また取り留めのない話をし始める。
もう、話題は令嬢の話からは離れ、流行りの服がどうとか、あの役者がどうとか、そんな話になりつつあった。
私はまた一つ溜息を吐いて、サフラン水売りに手招きをした。
サフラン水のカップから一口、甘い液体を喉に流し込むと、強くなり始めた南仏の太陽を見上げてみる。
今日も暑くなりそうだった。
夕刻前。
私は酒場に向かって歩いていた。
あれから、何人かの花売りだの、パン屋だのに話を聞いて回り、行き着いた結果は、酒場のイレーヌがこの話については一番詳しいだろう、と言う大変有り難い結論だった。
私は憤慨していた。
一番詳しいものがすぐ側にいたにもかかわらず、酒場の親父ときたら、そのことについては伏せていたのだ。
私はドアを開けるやいなや、真っ直ぐカウンターへと突き進み、親父に向かって声高に苦情をまくし立てた。
しかし、親父の方は澄ましたもので、俺はその辺の娘さんに聞いてみろと言ったろうが、と、しれっとしたものだ。
私は、イレーヌの顔を見て、娘さんねえ、と口を歪めた。
親父は、私の視線の後を追って、それから、ちょっとわかりにくすぎたかもしれねえなあ、と頬を掻く。
イレーヌが、こほん、と咳払いをし、私達は少し、首をすくめた。
彼女は少々尖った目をこっちに向けてきて、私は思わず、なに、お前さんはこの町の娘さんの親玉みたいなものさ、と思わずいった。
イレーヌがぎらりと笑う。
私は失言に気が付き、そして、教会の話を聞き出すのに苦労しそうだな、と考えながら、グラスを持って彼女の方に近寄っていった。
…そこから先が正直大変だった。
機嫌を損ねたイレーヌをおだて、なだめ、すかして、なんとか聞き出したのは、
と、いうこと。
伯爵令嬢が名もない修道女としてその生を閉じるというのも、何かの因果だろうか…。
ともかく、感慨に浸っていてもしょうがない。
もう日が暮れかけていたが、私は急ぎ指輪の納められたという教会へと向かう。
ドアを叩くと、血色の良い神父が怪訝そうに顔を出し、なにようですか、と迷惑そうな顔をした。
私は事情を説明して、件の指輪を見せて欲しい旨伝えると、神父はまたか、と言う色を顔に出し、無言でドアを閉めようとする。
私は慌てて財布を取り出し、金貨を何枚か神父の手に握らせた。
ドアが凄い勢いで、開いた。
……東洋には、地獄の沙汰も金次第、と言う言葉があるようだが、どうも教会でもそれは同じ事のようだ。
金貨を何枚か掴ませると、神父はずいぶんと協力的になり、いそいそと私達を奥へと通してくれた。
なるほど、そういう事情でしたら、神もお喜びになるでしょう、等と訳の分からないことをいいつつ、いそいそと大きな宝箱を取り出してくると、これが彼女の身元を証明してくれた指輪です、と大きなサファイアの付いた指輪を我々に示す。
それは伯爵家の紋章入りで、優美な品物だった。
伯爵令嬢の持ち物には、ふさわしい。
だが、私は小さく溜息を吐き、首を横に振った。
隣でロクサーヌが落胆した顔をしている。
商人が言っていた指輪は、これではない。
いえ、違うようです、と私は答え、立ち上がって踵を返す。
これで、依頼は終わりだろう、私はそう思って、歩き出した。
なるほど、恋物語等というものは、この程度の結末が丁度良いだろう。
…と…。
司祭が、ああ、そう言えば、彼女の持ち物の中に、指輪がありましたよ、と私の背中に声を掛けてくる。
彼女は、現世を捨て、キリストの花嫁になることを選び、修道院で息を引き取った、指輪はなかった…そう報告するつもりだった私は、思わず舌打ちしたが、司祭はそんなことに気づきもせず、いそいそと奥へと入っていくと、油紙に包まれた荷物を一つ取り出してきた。
それは小さな鞄。
開いてみると、手鏡やら、リボンの束、小さな人形やら…修道女になることを選んだ女が、そっと閉じこめておいたものが、静かに姿を見せた。
その中に、小さな宝石箱が一つ。
開いてみると、小さく、質素な銀の指輪が一つだけ、大事に納められていた。
とても、伯爵令嬢には似つかわしくない、慎ましやかな指輪。
私は眉を寄せた。
これだ。
あの商人が令嬢に別れ際に贈ったというのは、この指輪だ。
私は指輪をつまみ上げる。
司祭が、それは大した価値もない指輪のようですが、と、こともなげにいう。
私は、しかしどうも探していたのはこの指輪のようです、と答え、申し訳ないですが、この指輪は送り主の所に返して差し上げようと思うのですが、と言うと、神父はまた、難しそうな顔をしてみせる。
私は再び財布を取り出した。
早足に港に向かいながら、私は思わず天を見上げた。
手のひらには、あの銀の指輪。
小さな指輪だが、何となく重かった。
この指輪について、あの商人に、どういえばいいのか、ひどく悩ましい。
ロクサーヌはと言えば、なかなかの上機嫌で、と小さく、良かった、と何度も呟いている。
なにがだ、と聞き返すと、だって、彼女もきっと、ずっとあの商人さんのことを思っていたんだと思いますよ、と言い、そして、きっと誰にも言わず、一人で修道院にいたのも、彼に迷惑を掛けると思っていたか、それとも、彼のとこに戻ることが出来ないことを知っていたからじゃ無いでしょうか、と続けた。
そして、無邪気に、この話を聞けば、あの商人さんも喜ぶと・・救われると思います、と言った。
私は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたのだと思う。
ロクサーヌは、眉を寄せて、どうかしましたか、と尋ねてきた。
令嬢は、あんたのことなんかとうの昔に忘れて、それなりに賢く立ち回ったとさ、とでも報告出来れば、簡単だったんだがな、と私は揶揄するように答えた。
ロクサーヌはちょっとムッとした顔で、問題があるようには思えませんけど、と、いう。
私は小さく息を吐き、もし、事情を正直に伝えたら、どうなると思う、とロクサーヌに聞いた。
彼女は、今いったように、きっと喜んで…そういいかけた。
私はそれを遮って、そして、これから先もずっと、彼女を思い続けて暮らすだろう、とそう言った。
何か、問題でも、と、ロクサーヌは答える。
相思相愛で死んだ恋人を、一生思い続けて暮らすのが、果たして幸せかね、と私は聞いた。
それは、とロクサーヌが、口ごもる。
綺麗な恋物語なんて、当事者を不幸にするだけじゃないか、と私がいうと、ロクサーヌは、ちょっと俯いて、そんなことは、と小さく首を振る。
私は、口の端を歪めて見せた。
幸い、マルセイユからポルトガルまで、まだいくらか時間はある。
私は、商人にどう報告すべきか、思考を巡らしながら、また、地中海に船を出した。
眼下に広がる我らの海が、優しく波音を立てる。
だが、そこに生きる人々の人生が、いつだってそれなりの荒れ模様をみせるのは、神様の考えた皮肉だろうか。
曇天、微風。
幼なじみがどういう人生を送ったのか…それが知りたいのです、と、中年に入りかけたその商人は溜息混じりに言った。
…幼なじみというのは没落仕掛けた名門、アルマ伯の令嬢。
その商人は、父親がアルマ伯の所に出入りしていた関係で、アルマ伯の娘とは幼い時からの付き合いだった。
だが、今からもう10年も前に彼女はフランスへと嫁いでいった。
いわゆる、政略結婚であったという…。
だが、つい先日、その幼なじみが死んだ、と言う噂が商人の耳へと入ってきた。
それが、今回の私の「飯の種」と言うやつだ。
まだ独り身だと言うその商人に、もしかして彼女のことをずっと思っていらっしゃったのですか、と、ロクサーヌが神妙な面持ちで言った。
商人は、いいえ、まさか、と首を振った。
それなら、どうしていまになって、と、ロクサーヌが続ける。
けじめのようなものです、と歯切れ悪く、商人は答えた。
そして、少し寂しそうに、元より身分違いの話ですからね、と笑った。
若い頃は美形で通っただろう、その男は、それ故に逆に疲れ果てて見える。
私は小さく頷くと、前金を掴んで、立ち上がった。
たとえ、どんな話であっても、私にとっては、大事な仕事である。
恋物語であれ、宝物探しであれ、金になる仕事なら何でもするのが、私のやり方だ。
と…戸口に向かう私とロクサーヌの背中に、商人が、一つお願いがあります、と声を掛けてきた。
振り返った私達に商人は、分かれ際に彼女に贈った指輪…その指輪がどこにあるのか…それを確かめて欲しいのです、と、そう言った。
私は頷いた。
久々の地中海を、一路マルセイユへ。
いつもながらにこの地中海というのはひどく優しい海だ。
かつてローマ人達はこの海を『我らの海』と呼んだそうだが、1500年以上経った私達にとっても、『我らの海』というのはしっくり来る名前のように思う。
穏やかな波を切って、さして障害もなく、マルセイユに到着、
いつものように酒場の親父の所に顔を見せて、かくかくしかじかと事情を説明したのだが…親父は眉を曇らせた。
どうした、と尋ねると、マルコ、お前また湿っぽい話を引き込んできたな、と声を潜め、まあ、有名な話だから、その辺の娘さんにでも聞いてみるがいいさ、とグラスを磨き始める。
私は、有名な話ね、と口を曲げ、まあ、試してみようか、と広場の方へと歩き出した。
そのあたりの娘にでも聞いてみろ、と言うのも乱暴な話だ。
私は半ばやけくそ気味に、道行く花売りの少女を呼び止めて、バラの花を一本買い求め、アルマ伯爵令嬢の話ってのを知っているか、と彼女に聞いてみる。
すると、その花売り娘は、アルマ令嬢の話なら知ってますよ、とあっけなく頷き、有名な話でしょう、と笑った。
私は一瞬口を半開きにしたが、すぐに気を取り直して、詳しい話を聞かせてくれないか、と彼女に頼む。
と…私達の横を、冷たい、甘い、良い香り、と謳い文句を響かせながら、サフラン水売りがすり抜けていった。
花売りの少女が水売りの背中を目で追う。
私に、良く、見えるように。
額に一瞬青筋が浮かんだが、私は努めて平静を装い、サフラン水を一杯買い求めて、笑顔で花売りの少女に手渡す。
メルシィ、と笑顔で言うと、花売りは話を始めた…。
その話によると、何でも、令嬢は輿入れしたのはいいものの、その新郎を暗殺で失ってしまったのだという。
と…聞いていたロクサーヌが、あ、その話は知ってますよ、と手を打った。
ね、有名ですよね、と、町娘が頷き返す。
ロクサーヌが、ええ、すっかり忘れてた、とちろっと舌を出して笑う。
私はまた、一瞬口を半開きにし、そして、少々憤慨すると、知ってるなら最初から教えてくれ、と尖った声を上げた。
ロクサーヌは、アルマ伯爵の名前は忘れてたんですよ、と澄まして返し、町娘と、あのくだりがどうとか、このくだりがどうとか、若い娘に特有の取り留めのない話をし始める。
私は深い溜息を一つすると、観念して二人の話に耳を傾け始めた。
…結局の所、件の令嬢はその後女子修道院へと逃げ込んだらしい。
修道院は、俗世とは隔絶しているが故に、避難場所としては大変上等の場所だ。
だったら、その修道院を探してみればいいだろう。
私は二杯目のサフラン水を啜る二人の話に割り込むと、彼女がどの修道院に入ったのか知らないのか、と尋ねる。
二人は顔を見合わせたが、そういえば、そうよね、と言うばかりで、修道院の名前は出てこない。
眉間に皺を寄せると、ロクサーヌが口を尖らせて、そんな噂に出てくるようじゃ、避難場所にもならないじゃないですか、と言う。
もっともだ。
私が一瞬身を引くと、ロクサーヌと娘は、また取り留めのない話をし始める。
もう、話題は令嬢の話からは離れ、流行りの服がどうとか、あの役者がどうとか、そんな話になりつつあった。
私はまた一つ溜息を吐いて、サフラン水売りに手招きをした。
サフラン水のカップから一口、甘い液体を喉に流し込むと、強くなり始めた南仏の太陽を見上げてみる。
今日も暑くなりそうだった。
夕刻前。
私は酒場に向かって歩いていた。
あれから、何人かの花売りだの、パン屋だのに話を聞いて回り、行き着いた結果は、酒場のイレーヌがこの話については一番詳しいだろう、と言う大変有り難い結論だった。
私は憤慨していた。
一番詳しいものがすぐ側にいたにもかかわらず、酒場の親父ときたら、そのことについては伏せていたのだ。
私はドアを開けるやいなや、真っ直ぐカウンターへと突き進み、親父に向かって声高に苦情をまくし立てた。
しかし、親父の方は澄ましたもので、俺はその辺の娘さんに聞いてみろと言ったろうが、と、しれっとしたものだ。
私は、イレーヌの顔を見て、娘さんねえ、と口を歪めた。
親父は、私の視線の後を追って、それから、ちょっとわかりにくすぎたかもしれねえなあ、と頬を掻く。
イレーヌが、こほん、と咳払いをし、私達は少し、首をすくめた。
彼女は少々尖った目をこっちに向けてきて、私は思わず、なに、お前さんはこの町の娘さんの親玉みたいなものさ、と思わずいった。
イレーヌがぎらりと笑う。
私は失言に気が付き、そして、教会の話を聞き出すのに苦労しそうだな、と考えながら、グラスを持って彼女の方に近寄っていった。
…そこから先が正直大変だった。
機嫌を損ねたイレーヌをおだて、なだめ、すかして、なんとか聞き出したのは、
と、いうこと。
伯爵令嬢が名もない修道女としてその生を閉じるというのも、何かの因果だろうか…。
ともかく、感慨に浸っていてもしょうがない。
もう日が暮れかけていたが、私は急ぎ指輪の納められたという教会へと向かう。
ドアを叩くと、血色の良い神父が怪訝そうに顔を出し、なにようですか、と迷惑そうな顔をした。
私は事情を説明して、件の指輪を見せて欲しい旨伝えると、神父はまたか、と言う色を顔に出し、無言でドアを閉めようとする。
私は慌てて財布を取り出し、金貨を何枚か神父の手に握らせた。
ドアが凄い勢いで、開いた。
……東洋には、地獄の沙汰も金次第、と言う言葉があるようだが、どうも教会でもそれは同じ事のようだ。
金貨を何枚か掴ませると、神父はずいぶんと協力的になり、いそいそと私達を奥へと通してくれた。
なるほど、そういう事情でしたら、神もお喜びになるでしょう、等と訳の分からないことをいいつつ、いそいそと大きな宝箱を取り出してくると、これが彼女の身元を証明してくれた指輪です、と大きなサファイアの付いた指輪を我々に示す。
それは伯爵家の紋章入りで、優美な品物だった。
伯爵令嬢の持ち物には、ふさわしい。
だが、私は小さく溜息を吐き、首を横に振った。
隣でロクサーヌが落胆した顔をしている。
商人が言っていた指輪は、これではない。
いえ、違うようです、と私は答え、立ち上がって踵を返す。
これで、依頼は終わりだろう、私はそう思って、歩き出した。
なるほど、恋物語等というものは、この程度の結末が丁度良いだろう。
…と…。
司祭が、ああ、そう言えば、彼女の持ち物の中に、指輪がありましたよ、と私の背中に声を掛けてくる。
彼女は、現世を捨て、キリストの花嫁になることを選び、修道院で息を引き取った、指輪はなかった…そう報告するつもりだった私は、思わず舌打ちしたが、司祭はそんなことに気づきもせず、いそいそと奥へと入っていくと、油紙に包まれた荷物を一つ取り出してきた。
それは小さな鞄。
開いてみると、手鏡やら、リボンの束、小さな人形やら…修道女になることを選んだ女が、そっと閉じこめておいたものが、静かに姿を見せた。
その中に、小さな宝石箱が一つ。
開いてみると、小さく、質素な銀の指輪が一つだけ、大事に納められていた。
とても、伯爵令嬢には似つかわしくない、慎ましやかな指輪。
私は眉を寄せた。
これだ。
あの商人が令嬢に別れ際に贈ったというのは、この指輪だ。
私は指輪をつまみ上げる。
司祭が、それは大した価値もない指輪のようですが、と、こともなげにいう。
私は、しかしどうも探していたのはこの指輪のようです、と答え、申し訳ないですが、この指輪は送り主の所に返して差し上げようと思うのですが、と言うと、神父はまた、難しそうな顔をしてみせる。
私は再び財布を取り出した。
早足に港に向かいながら、私は思わず天を見上げた。
手のひらには、あの銀の指輪。
小さな指輪だが、何となく重かった。
この指輪について、あの商人に、どういえばいいのか、ひどく悩ましい。
ロクサーヌはと言えば、なかなかの上機嫌で、と小さく、良かった、と何度も呟いている。
なにがだ、と聞き返すと、だって、彼女もきっと、ずっとあの商人さんのことを思っていたんだと思いますよ、と言い、そして、きっと誰にも言わず、一人で修道院にいたのも、彼に迷惑を掛けると思っていたか、それとも、彼のとこに戻ることが出来ないことを知っていたからじゃ無いでしょうか、と続けた。
そして、無邪気に、この話を聞けば、あの商人さんも喜ぶと・・救われると思います、と言った。
私は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたのだと思う。
ロクサーヌは、眉を寄せて、どうかしましたか、と尋ねてきた。
令嬢は、あんたのことなんかとうの昔に忘れて、それなりに賢く立ち回ったとさ、とでも報告出来れば、簡単だったんだがな、と私は揶揄するように答えた。
ロクサーヌはちょっとムッとした顔で、問題があるようには思えませんけど、と、いう。
私は小さく息を吐き、もし、事情を正直に伝えたら、どうなると思う、とロクサーヌに聞いた。
彼女は、今いったように、きっと喜んで…そういいかけた。
私はそれを遮って、そして、これから先もずっと、彼女を思い続けて暮らすだろう、とそう言った。
何か、問題でも、と、ロクサーヌは答える。
相思相愛で死んだ恋人を、一生思い続けて暮らすのが、果たして幸せかね、と私は聞いた。
それは、とロクサーヌが、口ごもる。
綺麗な恋物語なんて、当事者を不幸にするだけじゃないか、と私がいうと、ロクサーヌは、ちょっと俯いて、そんなことは、と小さく首を振る。
私は、口の端を歪めて見せた。
幸い、マルセイユからポルトガルまで、まだいくらか時間はある。
私は、商人にどう報告すべきか、思考を巡らしながら、また、地中海に船を出した。
眼下に広がる我らの海が、優しく波音を立てる。
だが、そこに生きる人々の人生が、いつだってそれなりの荒れ模様をみせるのは、神様の考えた皮肉だろうか。
by Nijyuurou
| 2009-05-28 00:15