『敵の姿』
2007年 10月 01日
9月17日、ディリ。
テルナーテからディリへと向かう途上で、私達はエルカノが放ったと思われる追っ手と遭遇。
追っ手からは無事逃げ切ったものの、今度はその事にショックを受けたエレナが、漁船を盗んで姿を消した。
私達を危険にさらすまい、と言う気持ちから出たものだったが………全く、事態をさらにややこしくしてくれるものだ。
結局、エレナは海賊に襲われていたところを無事保護した。
…勝手な行動を取った罰として、エレナには10日間の朝飯抜きという過酷な処置を下し、私達は次の港を目指す。
出航所の役人の話によると、次の目的地は、モザンビーク………よく知った港である。
ディリからモザンビークまでは、それはそれは素晴らしい……早く言えば、楽な航海だった。
インド洋の風は独特で、一度感じたら忘れることはない。
ディリを西に進み、そのインド洋の風が吹き始めた頃になると、私の心からは以前感じた「世界は本当に丸いのか」という疑問は消えてなくなっていた。
以前書いたことがあるが、カリカットとゴア北を往復する生活が長かったせいで、私はどうもインドは異国、と言う感じがしない。
懐かしい故郷という気がする。
そして、船乗りにとって故郷の風ほど心地よいものはない。
それなら、カリカットにいったん寄って……と言う航路も考えたが…テルナーテでで遭った追っ手のこともある。
この『花の聖母マリア』号には追いつけないだろうが、軽ガレオンはさほど動きの鈍い船でもない。
下手な航路を取って、追いつかれる愚は避けたかった。
中部インド洋を西に取り、マダガスカル島へ……途中、モーリシャスによって食糧を補給する。
あの、飛べないドードーという鳥は、相変わらずウジャウジャとモーリシャスにひしめいていた。
有り難く、10匹ほど捕獲…その日ばかりは久しぶりに新鮮な肉にありつける。
香辛料を奮発して使い、香ばしく焼けた肉にかぶりつくと、長旅の疲れも多少は癒えるというものだ。
その後、マダガスカル島の北端を回って、モザンビークへ……いつも通りの航海である。
今まで何度も通った航路…穏やかな航海であった。
モザンビーク到着を、やはりいつもの出航所の役人が迎えてくれる。
よう、と手を挙げると、ああ、世界周航の冒険家は貴方でしたか、と笑い返してくれた。
世界周航の船が来るというので見てみれば私の船だったのだが、登録はロクサーヌの名前がされていたので、おかしいな、と思って見ていたらしい。
役人は、砂浜の方を指さして、記録のものがいますから、と親切に教えてくれる。
私は、いつもすまない、と言ってそちらの方に向かった。
後ろをエレナがひょこひょことついてくる。
どうも、私と役人が顔見知りなのが不思議らしい。
以前、生物調査のために、マダガスカル近海を行ったり来たりした…という話をすると、エレナは目を丸くしていた。
そして、学者のようなこともしてたんだ、と鋭く心を抉るようなことをさらりと口にする。
………私は、本職は密輸商だが、副業は博物学者なのだが………………………。
気を取り直して、記録員に話を聞いてみると、次の目的地はカーヴォヴェルデだと言う……。
アフリカの真反対………しかもヨーロッパに近い位置だ。
ずいぶん飛ぶんだな、と記録員に言うと、彼は待ってましたとばかりに頷いて、話し始めた。
世界周航艦隊は…もうこの時はエルカノの艦隊だが…この付近で約9週間足止めを食った。
理由は簡単……風である。
このあたりの風は季節によって大きく風向きを変え、その風向きで航海の可否が決まると言っても過言ではない。
そのために食料は欠乏………艦隊内では、モザンビークへの寄港を望む声が持ち上がった。
だが、エルカノはこのポルトガルの同盟港に寄港し、無様にすべてを失うよりも、名誉のために死の航海を選ぶことを選んだ……と言う。
自分が安全なところから、それを命ずるなら、ただ金の為と言うことで納得出来る。
だが、このときエルカノは崩れかけた艦隊を率い、自らの命をも限界まで削りながら、この決断を下したのだ。
エレナ>待って!エルカノさんは名誉のために航海を続けたの?
エレナが不思議そうな、そして彼女にしては珍しい…疑念…疑いに満ちた声を上げる。
無理もない。
エルカノは彼女の父親……マゼラン提督を殺した、仇なのだ。
その仇が、名誉を重んじる潔い行動とを取るとは、にわかに信じがたいのだろう。
記録員が、
そう言い、さらに、その代わり、すべての記録と積み荷を抹消されたでしょうが、と付け足した。
………航海の失敗か、名誉ある死か……。
エルカノがここで航海を続けたと言うことは、名誉ある死を選んだ、と言うことだ。
それは同時に船員達にもそれを選ばせた、と言うことでもある。
人を纏め上げる優れた統率力がなくては、とてもできることではない。
エルカノは、無能な男ではなく凄腕の船乗り、なのだ。
そして、自らの死を受け入れる覚悟もあった。
そう…決断が間違っていれば、自らも死ぬのだ。
私は、エルカノという男が、少し分からなくなってきた。
私ならば、死を選ぶより、どんな目にあっても生き延びることを選ぶ。
死んで花実が咲くものか、である。
英雄になるのは好きだが、生きてそれを楽しみたい。
それでも死の航海を選ぶのは、本当に誇り高い船乗りだ。
別の意味で…私の頭の中のエルカノと、こうして話に聞くエルカノの姿が、重ならなくなってきていた。
私は、策略家で、まるで小悪党のような一面を知っている。
だが、今の話の中のエルカノは紛れもなく、偉大な航海者だ……。
ともかく…エルカノは、死の危険を侵して航海を続け………そして、息も絶え絶えにたどり着いたのがカーボヴェルデだと言うのだ。
そこまで言って、記録員は補給は十二分に、と笑顔を見せた。
私は、ああ、と生返事をすると、エレナを連れて、船へと戻った。
…船に戻ってきてみると、補給はすべてすんでおり、船員達はもう思い思いに酒場で一杯やっていた。
驚くべき事に、船に見張りも立てずにだ。
しかも、ロクサーヌやマイクロフトまで、一緒になって一杯やっている。
………これまで、見知らぬ港ばかりで、やっと見知った港に戻ってきたので、緊張が緩んだのだろうが……。
それにしても、これはどういう様だろうか……。
何より、船長の私抜きで一杯やるなんて、ヒドイ話だ。
私は大声を上げて酒場に飛び込むと、ラム酒を注文して、一杯やった。
エレナが後に続く。
結局、その日はぐでんぐでんになって過ぎていった。
翌朝。
重い頭を振りながら出航。
全員が冴えない顔をしている。
ロクサーヌは頭が痛いと言って船室に引っ込んだままで、エレナもそれに倣っている。
……将来が心配だ。
だが、船が喜望峰沖に差し掛かったあたりで、頭の痛みが吹き飛ぶような事態が起きた。
きっかけは、マイクロフトが、
と言いだしたことだ。
最初は、悪いものでも食べたんじゃないか、と軽い気持ちで流していた。
ところが、船員達が次々におかしな匂いがする、と訴えはじめた。
自室に引っ込んでいたロクサーヌも、気持ちが悪い、と言って上がってくる。
さすがに放置もできず調査を命じてみると……匂いの元は船倉だった。
調べに降りたドゥルシネアが、大変、食料が腐ってる、と大声を上げている。
私は耳を疑った。
こんなに早く食料が腐るはずはないのだが…。
ともかく、腐った食料を廃棄して、最寄りの港に入ることに決め、ケープに針路を取った。
ところがだ……。
ケープに近づいたあたりで、またもドゥルシネアが騒ぎ出す。
今度はマストの上からだ。
おかしな船がいる、と言う。
………望遠鏡を覗いてみると、どこかで見た艤装の船だ。
少し考えて……テルナーテで襲ってきた連中と同じものだと気がついた。
…近寄ったら襲われるのは目に見えている。
寄港は避けたい…そう思って私はカリビブへと船を回した…。
ところが、ここにも艦隊が配置されている。
もしや、と思い、ルアンダに回ったが、やはりここにも……。
どうやら、寄港はさせてもらえそうにない。
相手はどうやってもこちらを生かして帰すつもりはないのだ。
やばいな、と思ったが……こうなったらカーボヴェルデまで一気に行くしかない。
ロクサーヌが、本気ですか、と匂いに顔をしかめながら言うが…
そうこうしてる間にも食料はどんどん腐ってきている。
問題は水だ。
水さえ持てば、食料は腐った分だけ魚を釣り上げて、何とか航行してみせる。
確かめてみたところ、残りの水は20日。
カーボヴェルデまで、何とか保つギリギリだ。
私は船を北北西に向け、一気に南大西洋を横断に掛かった。
どういう訳か、どんどん食料は腐っていく……。
今まで何度もここを通ったが、こんな事は初めてだ。
私達は、『平和の海』を渡った時以上に熱心に釣り糸を垂れ、必死に食料を確保した。
食料が腐る。
私達は釣る……。
延々とそれを繰り返し、ようやくカーボヴェルデが見えてきた頃には、私達はもう暫く魚は見たくない、そんな気持ちになっていた……。
…原因がはっきりしたのは港に入ってからだ。
エレナが
そう言って、船倉の樽を指さした。
………誰が入れたのかは、結局不明なままだった。
不明なままだったが、合議の末、倉庫番の男には昼飯抜き五日間という過酷な処罰が下された……。
海の掟は過酷なのだ。
もっとも、そんな事情を知らない出航所の役人は、敬意を持って私達を迎えてくれた。
かつて、エルカノの船もここで限界を迎え、何とか一計を案じてわずかな物資を調達…船はセビリアに向かった。
そう、ここが最後の寄港地です、と役人は言った。
次は、始点であり、終点でもある、セビリアだ。
……それにしてもディリからモザンビークの間までと比べると…ひどい航海だった。
だが、おそらくエルカノはさらに過酷な航海を経て、この港までやってきたのではないだろうか。
まともな補給もなく、モザンビークからカーボヴェルデまで航海をするなど、私ならばまっぴらだ。
聞けば、こんな過酷な航海であってもエルカノの艦隊で反乱は起きていない。
逆に、マゼラン提督は、一度大規模な反乱を起こされている。
してみれば、エルカノの船長としての腕は非凡なものと言わざるを得ないのではないか、と私は思った。
そして、そんな航海を経たからこそ、どんな手を使ってでも、自らの邪魔になる私達を消そうとするのは当然のことではないだろうか……。
そこまで考えて、ふと思い至った。
私は、マゼラン提督のように、強い意志で未知の海に漕ぎ出すことはできない。
エルカノのように、死を賭した航海を強行する腕と勇気もない。
しかし、今のエルカノのように、どんな手を使ってでも、自分を守ろうと、なりふり構わず足掻くことなら、理解出来る。
それは、私自身が、求道者のごときマゼラン提督よりも、なりふり構わないエルカノの方に近い証拠だ。
純粋で、名誉と欲を見つめて、何が正しいのかを考えているエレナが側にいたからかもしれないが、私はふと、富や権力を守るためにエレナを、私達を亡き者にしようとするエルカノのやり方を薄汚いもののように思うことがあった。
だが、私は聖人君主ではなく、一介の密輸業者である(副業は博物学者だが)。
人に褒められるようなこともしていないのに、人のやることを見て汚いものと切って捨てるのは、考え違いも良いところだ。
大体、日曜日に教会にも行っていないのに、善人面するなど見当はずれだ。
エルカノに殺されたマゼラン提督…フェルディナントさんに関しては、個人的な思いもあるが…。
それでも私は、かの航海でエルカノの取った行動を責めることはできない、と、そう思った。
航海のもたらす巨万の富と名声を前に、策略が飛び交うのは当然のことだ。
フェア、ではないかもしれない。
フェアではないかもしれないが、しかし、誰がその事の是非を問う事ができるだろう。
なぜなら、策略を仕掛ける方も、仕掛けられる方も、同様に自らの命を天秤に乗せ、奪うか奪われるかの戦いを繰り広げているのだ…それこそ、なりふり構わず。
その中で、自分がどう戦うかは、それぞれの問題である。
マゼラン提督はマゼラン提督の戦いを見事に戦い、エルカノはエルカノの戦いを今まさに戦っている。
いずれが善でいずれか美かは、誰の決められるものではない。
それは、後世の人が決めればいいことだ…私達の知ったことではない。
私は私なりの戦いをする…私のルールに則った戦いを…ただそれだけではないか……。
…そんなことを考えつつ、懲りもせずまた釣り糸を垂れていると、いつかのようにエレナが水の入った椀を差し出してくれていた。
礼を言って受け取ると、エレナは少し迷いながら、
と言った。
私が、俺もだよ、とだけ答えると、
エレナ>つらいこともあったけど…もっともっと、マルコさんと一緒にいたいな…
と、まるで葬式のような顔でいう。
私はちょっとため息をついて、あのな、と言いかけたが、それよりはやく
エレナ>って ちょっと気が早かったね…それじゃ、終点セビリアに向けて、しゅっぱーつ!
エレナは一気にそこまで言って、嵐のように去っていった。
私はあっけにとられた。
ヤレヤレである。
と…。
おそらく、今のやりとりを見ていたのだろう、ロクサーヌがやってきて、嬉しいですね、とからかうように言った。
まさか、このまま船に乗せておこうと言うんじゃないだろうな、と尋ねると、まさか、と答える。
そして、ロクサーヌは、実際お別れにはまだ早いかもしれませんね、と苦笑した。
私も笑った。
そう……。
おそらく最後のお楽しみはこれからである。
エルカノが、無事に私達を帰してくれるとは思えない。
私ならそうするように、きっとエルカノなら、最後の罠を仕掛けておく。
<ルール57 『日曜日は教会へ行くこと』>
テルナーテからディリへと向かう途上で、私達はエルカノが放ったと思われる追っ手と遭遇。
追っ手からは無事逃げ切ったものの、今度はその事にショックを受けたエレナが、漁船を盗んで姿を消した。
私達を危険にさらすまい、と言う気持ちから出たものだったが………全く、事態をさらにややこしくしてくれるものだ。
結局、エレナは海賊に襲われていたところを無事保護した。
…勝手な行動を取った罰として、エレナには10日間の朝飯抜きという過酷な処置を下し、私達は次の港を目指す。
出航所の役人の話によると、次の目的地は、モザンビーク………よく知った港である。
ディリからモザンビークまでは、それはそれは素晴らしい……早く言えば、楽な航海だった。
インド洋の風は独特で、一度感じたら忘れることはない。
ディリを西に進み、そのインド洋の風が吹き始めた頃になると、私の心からは以前感じた「世界は本当に丸いのか」という疑問は消えてなくなっていた。
以前書いたことがあるが、カリカットとゴア北を往復する生活が長かったせいで、私はどうもインドは異国、と言う感じがしない。
懐かしい故郷という気がする。
そして、船乗りにとって故郷の風ほど心地よいものはない。
それなら、カリカットにいったん寄って……と言う航路も考えたが…テルナーテでで遭った追っ手のこともある。
この『花の聖母マリア』号には追いつけないだろうが、軽ガレオンはさほど動きの鈍い船でもない。
下手な航路を取って、追いつかれる愚は避けたかった。
中部インド洋を西に取り、マダガスカル島へ……途中、モーリシャスによって食糧を補給する。
あの、飛べないドードーという鳥は、相変わらずウジャウジャとモーリシャスにひしめいていた。
有り難く、10匹ほど捕獲…その日ばかりは久しぶりに新鮮な肉にありつける。
香辛料を奮発して使い、香ばしく焼けた肉にかぶりつくと、長旅の疲れも多少は癒えるというものだ。
その後、マダガスカル島の北端を回って、モザンビークへ……いつも通りの航海である。
今まで何度も通った航路…穏やかな航海であった。
モザンビーク到着を、やはりいつもの出航所の役人が迎えてくれる。
よう、と手を挙げると、ああ、世界周航の冒険家は貴方でしたか、と笑い返してくれた。
世界周航の船が来るというので見てみれば私の船だったのだが、登録はロクサーヌの名前がされていたので、おかしいな、と思って見ていたらしい。
役人は、砂浜の方を指さして、記録のものがいますから、と親切に教えてくれる。
私は、いつもすまない、と言ってそちらの方に向かった。
後ろをエレナがひょこひょことついてくる。
どうも、私と役人が顔見知りなのが不思議らしい。
以前、生物調査のために、マダガスカル近海を行ったり来たりした…という話をすると、エレナは目を丸くしていた。
そして、学者のようなこともしてたんだ、と鋭く心を抉るようなことをさらりと口にする。
………私は、本職は密輸商だが、副業は博物学者なのだが………………………。
気を取り直して、記録員に話を聞いてみると、次の目的地はカーヴォヴェルデだと言う……。
アフリカの真反対………しかもヨーロッパに近い位置だ。
ずいぶん飛ぶんだな、と記録員に言うと、彼は待ってましたとばかりに頷いて、話し始めた。
世界周航艦隊は…もうこの時はエルカノの艦隊だが…この付近で約9週間足止めを食った。
理由は簡単……風である。
このあたりの風は季節によって大きく風向きを変え、その風向きで航海の可否が決まると言っても過言ではない。
そのために食料は欠乏………艦隊内では、モザンビークへの寄港を望む声が持ち上がった。
だが、エルカノはこのポルトガルの同盟港に寄港し、無様にすべてを失うよりも、名誉のために死の航海を選ぶことを選んだ……と言う。
自分が安全なところから、それを命ずるなら、ただ金の為と言うことで納得出来る。
だが、このときエルカノは崩れかけた艦隊を率い、自らの命をも限界まで削りながら、この決断を下したのだ。
エレナ>待って!エルカノさんは名誉のために航海を続けたの?
エレナが不思議そうな、そして彼女にしては珍しい…疑念…疑いに満ちた声を上げる。
無理もない。
エルカノは彼女の父親……マゼラン提督を殺した、仇なのだ。
その仇が、名誉を重んじる潔い行動とを取るとは、にわかに信じがたいのだろう。
記録員が、
そう言い、さらに、その代わり、すべての記録と積み荷を抹消されたでしょうが、と付け足した。
………航海の失敗か、名誉ある死か……。
エルカノがここで航海を続けたと言うことは、名誉ある死を選んだ、と言うことだ。
それは同時に船員達にもそれを選ばせた、と言うことでもある。
人を纏め上げる優れた統率力がなくては、とてもできることではない。
エルカノは、無能な男ではなく凄腕の船乗り、なのだ。
そして、自らの死を受け入れる覚悟もあった。
そう…決断が間違っていれば、自らも死ぬのだ。
私は、エルカノという男が、少し分からなくなってきた。
私ならば、死を選ぶより、どんな目にあっても生き延びることを選ぶ。
死んで花実が咲くものか、である。
英雄になるのは好きだが、生きてそれを楽しみたい。
それでも死の航海を選ぶのは、本当に誇り高い船乗りだ。
別の意味で…私の頭の中のエルカノと、こうして話に聞くエルカノの姿が、重ならなくなってきていた。
私は、策略家で、まるで小悪党のような一面を知っている。
だが、今の話の中のエルカノは紛れもなく、偉大な航海者だ……。
ともかく…エルカノは、死の危険を侵して航海を続け………そして、息も絶え絶えにたどり着いたのがカーボヴェルデだと言うのだ。
そこまで言って、記録員は補給は十二分に、と笑顔を見せた。
私は、ああ、と生返事をすると、エレナを連れて、船へと戻った。
…船に戻ってきてみると、補給はすべてすんでおり、船員達はもう思い思いに酒場で一杯やっていた。
驚くべき事に、船に見張りも立てずにだ。
しかも、ロクサーヌやマイクロフトまで、一緒になって一杯やっている。
………これまで、見知らぬ港ばかりで、やっと見知った港に戻ってきたので、緊張が緩んだのだろうが……。
それにしても、これはどういう様だろうか……。
何より、船長の私抜きで一杯やるなんて、ヒドイ話だ。
私は大声を上げて酒場に飛び込むと、ラム酒を注文して、一杯やった。
エレナが後に続く。
結局、その日はぐでんぐでんになって過ぎていった。
翌朝。
重い頭を振りながら出航。
全員が冴えない顔をしている。
ロクサーヌは頭が痛いと言って船室に引っ込んだままで、エレナもそれに倣っている。
……将来が心配だ。
だが、船が喜望峰沖に差し掛かったあたりで、頭の痛みが吹き飛ぶような事態が起きた。
きっかけは、マイクロフトが、
と言いだしたことだ。
最初は、悪いものでも食べたんじゃないか、と軽い気持ちで流していた。
ところが、船員達が次々におかしな匂いがする、と訴えはじめた。
自室に引っ込んでいたロクサーヌも、気持ちが悪い、と言って上がってくる。
さすがに放置もできず調査を命じてみると……匂いの元は船倉だった。
調べに降りたドゥルシネアが、大変、食料が腐ってる、と大声を上げている。
私は耳を疑った。
こんなに早く食料が腐るはずはないのだが…。
ともかく、腐った食料を廃棄して、最寄りの港に入ることに決め、ケープに針路を取った。
ところがだ……。
ケープに近づいたあたりで、またもドゥルシネアが騒ぎ出す。
今度はマストの上からだ。
おかしな船がいる、と言う。
………望遠鏡を覗いてみると、どこかで見た艤装の船だ。
少し考えて……テルナーテで襲ってきた連中と同じものだと気がついた。
…近寄ったら襲われるのは目に見えている。
寄港は避けたい…そう思って私はカリビブへと船を回した…。
ところが、ここにも艦隊が配置されている。
もしや、と思い、ルアンダに回ったが、やはりここにも……。
どうやら、寄港はさせてもらえそうにない。
相手はどうやってもこちらを生かして帰すつもりはないのだ。
やばいな、と思ったが……こうなったらカーボヴェルデまで一気に行くしかない。
ロクサーヌが、本気ですか、と匂いに顔をしかめながら言うが…
そうこうしてる間にも食料はどんどん腐ってきている。
問題は水だ。
水さえ持てば、食料は腐った分だけ魚を釣り上げて、何とか航行してみせる。
確かめてみたところ、残りの水は20日。
カーボヴェルデまで、何とか保つギリギリだ。
私は船を北北西に向け、一気に南大西洋を横断に掛かった。
どういう訳か、どんどん食料は腐っていく……。
今まで何度もここを通ったが、こんな事は初めてだ。
私達は、『平和の海』を渡った時以上に熱心に釣り糸を垂れ、必死に食料を確保した。
食料が腐る。
私達は釣る……。
延々とそれを繰り返し、ようやくカーボヴェルデが見えてきた頃には、私達はもう暫く魚は見たくない、そんな気持ちになっていた……。
…原因がはっきりしたのは港に入ってからだ。
エレナが
そう言って、船倉の樽を指さした。
………誰が入れたのかは、結局不明なままだった。
不明なままだったが、合議の末、倉庫番の男には昼飯抜き五日間という過酷な処罰が下された……。
海の掟は過酷なのだ。
もっとも、そんな事情を知らない出航所の役人は、敬意を持って私達を迎えてくれた。
かつて、エルカノの船もここで限界を迎え、何とか一計を案じてわずかな物資を調達…船はセビリアに向かった。
そう、ここが最後の寄港地です、と役人は言った。
次は、始点であり、終点でもある、セビリアだ。
……それにしてもディリからモザンビークの間までと比べると…ひどい航海だった。
だが、おそらくエルカノはさらに過酷な航海を経て、この港までやってきたのではないだろうか。
まともな補給もなく、モザンビークからカーボヴェルデまで航海をするなど、私ならばまっぴらだ。
聞けば、こんな過酷な航海であってもエルカノの艦隊で反乱は起きていない。
逆に、マゼラン提督は、一度大規模な反乱を起こされている。
してみれば、エルカノの船長としての腕は非凡なものと言わざるを得ないのではないか、と私は思った。
そして、そんな航海を経たからこそ、どんな手を使ってでも、自らの邪魔になる私達を消そうとするのは当然のことではないだろうか……。
そこまで考えて、ふと思い至った。
私は、マゼラン提督のように、強い意志で未知の海に漕ぎ出すことはできない。
エルカノのように、死を賭した航海を強行する腕と勇気もない。
しかし、今のエルカノのように、どんな手を使ってでも、自分を守ろうと、なりふり構わず足掻くことなら、理解出来る。
それは、私自身が、求道者のごときマゼラン提督よりも、なりふり構わないエルカノの方に近い証拠だ。
純粋で、名誉と欲を見つめて、何が正しいのかを考えているエレナが側にいたからかもしれないが、私はふと、富や権力を守るためにエレナを、私達を亡き者にしようとするエルカノのやり方を薄汚いもののように思うことがあった。
だが、私は聖人君主ではなく、一介の密輸業者である(副業は博物学者だが)。
人に褒められるようなこともしていないのに、人のやることを見て汚いものと切って捨てるのは、考え違いも良いところだ。
大体、日曜日に教会にも行っていないのに、善人面するなど見当はずれだ。
エルカノに殺されたマゼラン提督…フェルディナントさんに関しては、個人的な思いもあるが…。
それでも私は、かの航海でエルカノの取った行動を責めることはできない、と、そう思った。
航海のもたらす巨万の富と名声を前に、策略が飛び交うのは当然のことだ。
フェア、ではないかもしれない。
フェアではないかもしれないが、しかし、誰がその事の是非を問う事ができるだろう。
なぜなら、策略を仕掛ける方も、仕掛けられる方も、同様に自らの命を天秤に乗せ、奪うか奪われるかの戦いを繰り広げているのだ…それこそ、なりふり構わず。
その中で、自分がどう戦うかは、それぞれの問題である。
マゼラン提督はマゼラン提督の戦いを見事に戦い、エルカノはエルカノの戦いを今まさに戦っている。
いずれが善でいずれか美かは、誰の決められるものではない。
それは、後世の人が決めればいいことだ…私達の知ったことではない。
私は私なりの戦いをする…私のルールに則った戦いを…ただそれだけではないか……。
…そんなことを考えつつ、懲りもせずまた釣り糸を垂れていると、いつかのようにエレナが水の入った椀を差し出してくれていた。
礼を言って受け取ると、エレナは少し迷いながら、
と言った。
私が、俺もだよ、とだけ答えると、
エレナ>つらいこともあったけど…もっともっと、マルコさんと一緒にいたいな…
と、まるで葬式のような顔でいう。
私はちょっとため息をついて、あのな、と言いかけたが、それよりはやく
エレナ>って ちょっと気が早かったね…それじゃ、終点セビリアに向けて、しゅっぱーつ!
エレナは一気にそこまで言って、嵐のように去っていった。
私はあっけにとられた。
ヤレヤレである。
と…。
おそらく、今のやりとりを見ていたのだろう、ロクサーヌがやってきて、嬉しいですね、とからかうように言った。
まさか、このまま船に乗せておこうと言うんじゃないだろうな、と尋ねると、まさか、と答える。
そして、ロクサーヌは、実際お別れにはまだ早いかもしれませんね、と苦笑した。
私も笑った。
そう……。
おそらく最後のお楽しみはこれからである。
エルカノが、無事に私達を帰してくれるとは思えない。
私ならそうするように、きっとエルカノなら、最後の罠を仕掛けておく。
<ルール57 『日曜日は教会へ行くこと』>
by Nijyuurou
| 2007-10-01 23:45
| 『Circumnavigation』