『Farewell miss Ellena』
2007年 10月 09日
9月19日、セビリア。
すべてに決着が付いた。
手記はタベラ枢機卿へと渡され、エレナはバルボサ家を継ぐことが決まった。
私達と言えばいつもの通り。
宴会だ。
王宮にあのジブラルタルの追撃戦でも捨てなかった香辛料を持ち込ん料理を作り、豪勢な祝宴となった。
寛大なことに、うちの乗組員達も参加を許された。
貴族の中の物好きな連中が残って一緒に宴席に加わり、何とタベラ枢機卿までが参加した。
前代未聞だという。
だが、いい宴会だった。
俺とマイクロフトが女装して踊りを踊って座を沸かせ、またロクサーヌとドゥルシネアがコンビで歌を歌う。
…どんな嵐が来ようとも、心のオール離さずに…
二人の歌声が謁見室を包む。
…やがていつかたどり着くさ ただ一人 お前の岸辺へ …
そう、どんな航海でも、いつかたどり着くのだ。
その船乗りの、帰るべき、岸辺へ。
翌朝…出航所で『花の聖母マリア号』の出航準備を整えていると、エレナがやってきた。
皆、いつもと変わらないように作業を続けている。
エレナが、おはよう、と言って甲板に上がってくる。
皆、いつものように、おはよう、と言って彼女を出迎えた。
私はちょうど船尾で釣り糸を垂れていた。
気付かないふりをして、釣り糸を垂れていると、エレナがやってきて、いつものように水を出してくれ、私の隣に座る。
確か、彼女が乗ってきた頃にもこんな事があった。
リオデジャネイロの沖だったと思う。
今はそのころに比べてずいぶん日差しも穏やかだ。
竿が引いた。
慌てて上げると、いつものようにサバだった。
エレナは黙って、座っている。
私も何も言わなかった。
ゆっくりと、けだるく、午後の時間が流れていく。
やがて、エレナがぽつりと、エルカノさん、どうなっただろ、と呟くように言った。
エルカノはあれから近衛隊に取り調べを受けているらしいが……。
なにしろ、私達の飲むはずだったワインの中から毒が出たのだ…前後の事情から、誰が疑われるかは明白だ。
しかし、やつほどの名声があれば、事をうやむやにはできるだろう。
…だが、もう香料諸島の権益に絡むことはできまい。
あの航路の経営は早晩他の誰かの手に移るはずだ。
そこまで答えて、だが…と私は言った。
それだけだ。
それ以上の事はない。
エルカノはやはり、初の周航を成し遂げた男として、名前を残す。
創業の提督がマゼラン……そして、マゼランの後を継いで、世界周航をやり遂げたのがエルカノ。
いずれ、そう言う風に伝えられるようになるのではないか、と私は言った。
そして、今度は私が、それで良かったのか、とエレナに聞いた。
エレナは、にっこりと笑った。
エルカノさんも、誇りある船乗りだったんだよ、きっと、と言う。
私はエレナの頭を撫でた。
偉いぞ、と言った。
エレナはひどく嬉しそうに笑った。
だが、笑っている顔がだんだんと崩れていく。
泣いているのか笑っているのか。
みんなとも、これでお別れだね、とエレナは泣いた。
泣き声が海の上を静かに流れていく。
ロクサーヌがハンカチを目に当てた。
ドゥルシネアがやはりべしょべしょの顔で寂しいよ、と泣いた。
船員達の間からも、鼻を啜る音が聞こえ、それにマイクロフトのとっとと作業をしねえか、という悲鳴のような声が被さる。
私は黙って彼女の肩を撫でた。
ようやく泣きやんだ彼女に、幸せにおなり、と言うと、彼女は、またあえるよね、とぐしゃぐしゃの顔を拭きながら言った。
最後の最後で、ひどい顔じゃないか。
またあえるとも、そう言うと、彼女はかろうじて笑った。
そして、
ブエノスアイレスでのお礼、まだだったよね…これ…もらって!
そういって、
あのロザリオを、私の手に押しつけてきた。
私は苦笑した。
そして、出しそびれしまったな、と言ってから、古ぼけたピューリタンハットを彼女に被らせた。
彼女は、ありがとう、と嬉しそうにその帽子に手をやる。
私は、思わず微笑んだ。
その帽子は、君のお父さんのだったのだ、そう言うと、エレナは何のことか分からない、そう言う顔でこちらを見た。
私は、若い頃のことを、彼女に話していた。
フェルディナントさんの人柄、してくれた話、私の憧れ…。
あの人が出て行った日のこと、そして、その姿………。
その帽子は、その時にあの人が私に貸してくれたもの。
そして、と私はロザリオを持ち上げた。
このロザリオは、私があの人に貸したもの。
いつか航海を終えて、この港に戻ってきた時、また、この港で返すと、そう約束したと。
エレナは、それじゃあ、と絶句した。
私は笑って頷いた。
私はフェルディナントさんの友達だったんだ。
ロクサーヌが、やっぱりそんなことがあったんですね、とため息を吐く。
と…エレナが、輝くような笑顔を見せた。
エレナ>私、船乗りになろうと思うんだ…お父さんに負けないように!
そうか、と私は頷いた。
ロクサーヌも、頑張ってねと彼女の髪を撫でた。
エレナ>マルコさんに負けないように!
思わず頭を掻いてしまう。
ドゥルシネアが私の姿を見て、おかしそうに吹き出した。
エレナ>そうなれたら…いつか、どこかの海を、また一緒に旅したいなぁ
応、と船員達が応じる。
マイクロフトが、真っ赤な目で、待ってるぜ、と彼女の肩を叩いた。
おーい、エレナ、と、ディエゴ老人の声が聞こえる。
彼女は、彼女の岸辺に、帰らなくては。
だが、彼女は渡し板へと向かいながら、
エレナ>………約束だよ!マルコさん!
もう一度、あの笑顔でそう言った。
私は少し考えて、
ああ、約束だ。
そう答えた。
そして、彼女は甲板を降りていった。
良い潮時だな、と私は思った。
展帆!
船員にそう命じる。
応、と船員達が応じた。
白地に青の『花の聖母マリア』のメインセイルが風をはらんで広がった。
船がセビリアを出て行く。
岸で、エレナが大きく手を振っているのが見える。
私も、皆も、彼女が見えなくなるまで手を振り続けた。
良い子でしたね、とロクサーヌが言う。
ああ、と私は答えた。
私の胸に残ったロザリオが、風を受けてくるくると回っている。
約束は守ったよ、フェルディナントさん。
私は呟いた。
そして…また新しい約束もできた…それでも、いいだろう?、と天を振り仰ぐ。
運命の輪。
得てして、運命は円を描いてくるくると回るものだ。
このロザリオもまた然り。
くるくる、くるくると世界を回り、そしてまた始まりの、このセビリアに戻ってきたのだ。
私は遠くなるセビリアを振り仰いで呟いた。
くるくる、くるくると、運命の輪は回る。
世界を回る。
『ルール60 <約束は守る>』
10月7日、ヴェネチア。
いい話じゃないか、と、モチェニーゴがコーヒーを飲みながら頷いた。
私は自分のコーヒーをシナモンスティックで掻き回しながら、それはどうも、と答えた。
この野郎。
私は内心の怒りを押し殺して、努めて平静を装った。
あれから、いったんジェノヴァに寄港。
セビリアでもらった恩賞を皆で山分けすると、一人頭でも一生とは行かないが5年は遊んで暮らせる金額になった。
そこで、いったん船員達はジェノヴァで解散し、各々自分の生活に戻らせることとした。
しばらく遊んで暮らそうというもの、郷里に帰るもの、いろいろだ。
あの気の弱そうなコックは、ジェノヴァで酒場をやろうという話なので、また機会があったら寄ってみたいと思う。
そして、私は新たに雇った水夫とともに、ヴェネチアに戻ってきた。
元はと言えば、このモチェニーゴ官房長官殿が持ってきた話である。
報告をしておかなくてはなるまい。
そして、言いたいことが山ほどあった。
……報告を終え、コーヒーを飲み干すと、モチェニーゴは、まあ、しばらくはヴェネチアで疲れを取っていけよ、と俺の肩を叩く。
私は、笑顔……きっといやあな笑顔だったと思うが、ともかく笑顔を浮かべて、フィリッポ=ピガフェッタって男を知ってるか、と私はモチェニーゴに聞いた。
ああ、さっき出てきた手記の作者だろう、と、とぼけたことを言う。
それはアントニオ、だ。
フィリッポ=ピガフェッタは人文学者にして軍人…そして、アントニオ=ピガフェッタの息子である。
この間のレパントの海戦でも砲術の知識で活躍してる。
そう言うと、モチェニーゴは、ああ、そうだったな、とまるで人ごとのように言う。
。。反トルコの旗手として、レパントを率いた男の台詞ではない。
私は、モチェニーゴの首を絞めたい誘惑に駆られながら、話を続けた…。
分からないことが何点かある。
1.何故、他に腕の良い航海者がいるにもかかわらず、私が世界周航艦隊に推薦されたのか。
モチェニーゴは笑顔で、それはお前の腕が良いからさ、と答えた。
2.何故、このタイミングでディエゴ老人は手記の捜索を考えたのか。また、何故、マゼラン提督と縁のある私にエレナを託したのか。
モチェニーゴは笑顔で、それは偶然さ、と答えた。
3.ディエゴ老人は、マニラのレガスピと連絡を取ったり、俺に前金を払ったりしているが…エレナは自分で、炊事をしていたそうで、さほど豊かな暮らしぶりではなかった…その生活の中で、そう言った資金をどうやって調達したのか。
モチェニーゴは笑顔で、それはへそくりさ、と答えた。
殴るぞ、と私は言った。
モチェニーゴは、野蛮だな、と答えた。
私は呆れ顔でソファーに体を預けた。
私が言っているのは、ようするに、手記の話を裏で嗅ぎつけ、使えそうな駒を揃え、ディエゴ老人を焚き付け、さらに彼に資金援助をしてその気にさせた『黒幕』がいるんじゃないか、と言うことだ。
なあ、黒幕、と私は言った。
モチェニーゴはしばらくコーヒーをかき混ぜながら、黙っていたが、やがてニイッと笑って、いつ気が付いた、と言った。
マニラでレガスピのところに行ったあたりだ、と私は答えた。
妙に連絡が行き届きすぎてるんじゃないか、と思ったのだ。
それに加えて、エレナのロザリオ……彼女がマゼラン提督の娘だという事実。
あまりに出来すぎている。
予想が確信に変わったのは、ジェノヴァに帰ってきて調べてみると、アントニオ=ピガフェッタの息子が、砲術家としてレパントに参戦……モチェニーゴ官房長官の下で働いていた、と言う事を知った時だ。
モチェニーゴは、いいぞ、それでこそだ、と嬉しそうに拍手した。
私は渋い顔で、何が目的だったんだ、と尋ねる。
モチェニーゴは、別に、と答えた。
ただ、部下の親族の無念を晴らしてやろうと思ったのさ、と。
殴るぞ、と私は言った。
モチェニーゴは、乱暴だな、と憤慨したような抗議を上げる。
私は、じっとモチェニーゴを見つめた。
モチェニーゴはしばらく瞑目して黙ったままだったが、やがて、秘密だぞ、と呟いた。
私は約束する、と答えた。
エルカノはやりすぎたんだ。
剃刀のような笑みを浮かべて、モチェニーゴは言った。
エルカノは香料諸島の経営にあまりに積極的だった。
その収益が自らの懐にはいるのだから、無理はない。
だが、香料諸島からの直接交易が盛んになれば、ただでさえ打撃を受けているヴェネチアの東方貿易がさらに打撃を受ける。
なんとか手を打たなくては、と思っている時に、ピガフェッタから、手記の話を聞いたのだという。
初めは単なる噂だと思ったが、調べてみると信憑性があった。
そこで思い出したのが、マゼラン提督と因縁のある私、だ。
…私は呆れた顔をしていたのだと思う。
モチェニーゴはそんな顔をするなよ、謝るから、と悪びれない顔でそう言って、またコーヒーを口に運んだ。
…まったく…だ。
私を使う気になったのも、元々ジェノヴァ人で、なおかつ密輸商の悪名高い私なら、いざイスパニアともめた時も、一航海者の暴走として処理してしまうのが簡単だと思ったからじゃないか…私がそう尋ねると、モチェニーゴは、はは、と曖昧な笑顔を見せる。
その額に少々汗が光っていたのを私は見逃さなかった。
やれやれである。
私はエルカノが少々哀れになってきていた。
必死に航海をして帰り、香料諸島の仕事を熱心にしすぎたばっかりに、こんな腹黒い男の陰謀の餌食になるのだと。
モチェニーゴは、エルカノは、やはり航海者だったのさ、とすました顔で言う。
航海者ではあっても、政治家ではなかった、と。
タベラ枢機卿も、やはり政治家と言うより、宗教界の方だ、とも言う。
まるで嘲笑うように。
恐ろしい話である。
私は大きくため息を吐いた。
これで、おおむねの謎は解けた…。
が…しかしな、とモチェニーゴは続けた。
お前が、手記だけじゃなく、航海の途中に攻撃を受けたことを暴露すれば、エルカノは名実ともに転落しただろうに、何故そうしなかったんだ、と責めるように言う。
…確かに、そう言う選択もあった。
だが、私は手記のみをタベラ枢機卿に渡したのみで、エルカノの攻撃については一切喋っていない。
そのため、まだ名目上はエルカノの名前は生きている。
モチェニーゴとしては、完膚無きまでにエルカノを葬って欲しかったのだろう。
私は首を振った。
エルカノは確かに汚い手を使ったが、それでもテルナーテから先の地獄の航海を切り抜けてセビリアに戻ったのは、やつの力だ。
その地獄…それを越えた男にふさわしい名誉は、その手に残されてしかるべきではないかと、私は思う。
それが俺のやり方だ、と肩をすくめる。
いつもの、ルール、と言うやつか、とモチェニーゴが尋ねてくる。
そうだ、と私は答えた。
しかし…。
お前や、オルオセロがこうやって多少反発したところで、早晩このヴェネチア共和国は滅びるぞ、と、こんどは私が言った。
ヴェネチアの民は移り気で、あまりに享楽的だ。
ヴェネチアの夕焼けが美しいのは、滅びに向かっているからではないかと思うこともある。
滅び行くものは美しい。
だが、後200年は保たせるさ、と、モチェニーゴは胸を張ってニッと笑う。
それに、ヴェネチア共和国が滅んでも、ヴェネチアが滅ぶ日は来ないだろうと、彼は続けた。
不滅の水の都ヴェネチアのため、どんな汚い手でも使うのが、俺のやり方だ、と今度は彼が肩をすくめてみせる。
ルール、と言うやつか、と私は尋ねた。
そうだ、と彼は答えた。
私は、もう一度大きくため息を吐いた。
人差し指で、モチェニーゴの胸をどすん、と突く。
乱暴な、と非難の声が上がる。
私は、これで今回の件はケリだ、と言った。
モチェニーゴは、それならいい、と頷いた。
続けて、私は一枚の紙を彼の前に投げた。
請求書である。
なんだこれは、と彼が怪訝そうな声を出した。
見ての通り請求書だ。
私がセビリア沖で海に捨てた香辛料と『捨て錨』で破損した『花の聖母マリア』号の修理費である。
なんだこれは、こんなもの払えるか、とモチェニーゴが叫ぶ。
馬鹿野郎、元はお前のところから出た話なんだからお前が払え、と私は叫び返す。
…そう、航行費自体は赤字なのだ…………。
気でも違ったのか、とモチェニーゴ。
今違った、と私。
と…あまり大きな声を出したので、隣室からのドアが開き、ロクサーヌがどうかしましたか、と顔を見せた。
私とモチェニーゴは慌てて肩を組むと、友情を深めあってたんだ、と答えた。
ロクサーヌが、そうですか、と言って隣室に戻る。
途端。
私とモチェニーゴはお互いを突き放しあって、口論の続きをはじめた…………………………。
…かたつむり枝に這い、神、天にしろしめす、すべて世は事もなし。
『ルール61 <返済は計画的に>』
すべてに決着が付いた。
手記はタベラ枢機卿へと渡され、エレナはバルボサ家を継ぐことが決まった。
私達と言えばいつもの通り。
宴会だ。
王宮にあのジブラルタルの追撃戦でも捨てなかった香辛料を持ち込ん料理を作り、豪勢な祝宴となった。
寛大なことに、うちの乗組員達も参加を許された。
貴族の中の物好きな連中が残って一緒に宴席に加わり、何とタベラ枢機卿までが参加した。
前代未聞だという。
だが、いい宴会だった。
俺とマイクロフトが女装して踊りを踊って座を沸かせ、またロクサーヌとドゥルシネアがコンビで歌を歌う。
…どんな嵐が来ようとも、心のオール離さずに…
二人の歌声が謁見室を包む。
…やがていつかたどり着くさ ただ一人 お前の岸辺へ …
そう、どんな航海でも、いつかたどり着くのだ。
その船乗りの、帰るべき、岸辺へ。
翌朝…出航所で『花の聖母マリア号』の出航準備を整えていると、エレナがやってきた。
皆、いつもと変わらないように作業を続けている。
エレナが、おはよう、と言って甲板に上がってくる。
皆、いつものように、おはよう、と言って彼女を出迎えた。
私はちょうど船尾で釣り糸を垂れていた。
気付かないふりをして、釣り糸を垂れていると、エレナがやってきて、いつものように水を出してくれ、私の隣に座る。
確か、彼女が乗ってきた頃にもこんな事があった。
リオデジャネイロの沖だったと思う。
今はそのころに比べてずいぶん日差しも穏やかだ。
竿が引いた。
慌てて上げると、いつものようにサバだった。
エレナは黙って、座っている。
私も何も言わなかった。
ゆっくりと、けだるく、午後の時間が流れていく。
やがて、エレナがぽつりと、エルカノさん、どうなっただろ、と呟くように言った。
エルカノはあれから近衛隊に取り調べを受けているらしいが……。
なにしろ、私達の飲むはずだったワインの中から毒が出たのだ…前後の事情から、誰が疑われるかは明白だ。
しかし、やつほどの名声があれば、事をうやむやにはできるだろう。
…だが、もう香料諸島の権益に絡むことはできまい。
あの航路の経営は早晩他の誰かの手に移るはずだ。
そこまで答えて、だが…と私は言った。
それだけだ。
それ以上の事はない。
エルカノはやはり、初の周航を成し遂げた男として、名前を残す。
創業の提督がマゼラン……そして、マゼランの後を継いで、世界周航をやり遂げたのがエルカノ。
いずれ、そう言う風に伝えられるようになるのではないか、と私は言った。
そして、今度は私が、それで良かったのか、とエレナに聞いた。
エレナは、にっこりと笑った。
エルカノさんも、誇りある船乗りだったんだよ、きっと、と言う。
私はエレナの頭を撫でた。
偉いぞ、と言った。
エレナはひどく嬉しそうに笑った。
だが、笑っている顔がだんだんと崩れていく。
泣いているのか笑っているのか。
みんなとも、これでお別れだね、とエレナは泣いた。
泣き声が海の上を静かに流れていく。
ロクサーヌがハンカチを目に当てた。
ドゥルシネアがやはりべしょべしょの顔で寂しいよ、と泣いた。
船員達の間からも、鼻を啜る音が聞こえ、それにマイクロフトのとっとと作業をしねえか、という悲鳴のような声が被さる。
私は黙って彼女の肩を撫でた。
ようやく泣きやんだ彼女に、幸せにおなり、と言うと、彼女は、またあえるよね、とぐしゃぐしゃの顔を拭きながら言った。
最後の最後で、ひどい顔じゃないか。
またあえるとも、そう言うと、彼女はかろうじて笑った。
そして、
ブエノスアイレスでのお礼、まだだったよね…これ…もらって!
そういって、
あのロザリオを、私の手に押しつけてきた。
私は苦笑した。
そして、出しそびれしまったな、と言ってから、古ぼけたピューリタンハットを彼女に被らせた。
彼女は、ありがとう、と嬉しそうにその帽子に手をやる。
私は、思わず微笑んだ。
その帽子は、君のお父さんのだったのだ、そう言うと、エレナは何のことか分からない、そう言う顔でこちらを見た。
私は、若い頃のことを、彼女に話していた。
フェルディナントさんの人柄、してくれた話、私の憧れ…。
あの人が出て行った日のこと、そして、その姿………。
その帽子は、その時にあの人が私に貸してくれたもの。
そして、と私はロザリオを持ち上げた。
このロザリオは、私があの人に貸したもの。
いつか航海を終えて、この港に戻ってきた時、また、この港で返すと、そう約束したと。
エレナは、それじゃあ、と絶句した。
私は笑って頷いた。
私はフェルディナントさんの友達だったんだ。
ロクサーヌが、やっぱりそんなことがあったんですね、とため息を吐く。
と…エレナが、輝くような笑顔を見せた。
エレナ>私、船乗りになろうと思うんだ…お父さんに負けないように!
そうか、と私は頷いた。
ロクサーヌも、頑張ってねと彼女の髪を撫でた。
エレナ>マルコさんに負けないように!
思わず頭を掻いてしまう。
ドゥルシネアが私の姿を見て、おかしそうに吹き出した。
エレナ>そうなれたら…いつか、どこかの海を、また一緒に旅したいなぁ
応、と船員達が応じる。
マイクロフトが、真っ赤な目で、待ってるぜ、と彼女の肩を叩いた。
おーい、エレナ、と、ディエゴ老人の声が聞こえる。
彼女は、彼女の岸辺に、帰らなくては。
だが、彼女は渡し板へと向かいながら、
エレナ>………約束だよ!マルコさん!
もう一度、あの笑顔でそう言った。
私は少し考えて、
ああ、約束だ。
そう答えた。
そして、彼女は甲板を降りていった。
良い潮時だな、と私は思った。
展帆!
船員にそう命じる。
応、と船員達が応じた。
白地に青の『花の聖母マリア』のメインセイルが風をはらんで広がった。
船がセビリアを出て行く。
岸で、エレナが大きく手を振っているのが見える。
私も、皆も、彼女が見えなくなるまで手を振り続けた。
良い子でしたね、とロクサーヌが言う。
ああ、と私は答えた。
私の胸に残ったロザリオが、風を受けてくるくると回っている。
約束は守ったよ、フェルディナントさん。
私は呟いた。
そして…また新しい約束もできた…それでも、いいだろう?、と天を振り仰ぐ。
運命の輪。
得てして、運命は円を描いてくるくると回るものだ。
このロザリオもまた然り。
くるくる、くるくると世界を回り、そしてまた始まりの、このセビリアに戻ってきたのだ。
私は遠くなるセビリアを振り仰いで呟いた。
くるくる、くるくると、運命の輪は回る。
世界を回る。
『ルール60 <約束は守る>』
10月7日、ヴェネチア。
いい話じゃないか、と、モチェニーゴがコーヒーを飲みながら頷いた。
私は自分のコーヒーをシナモンスティックで掻き回しながら、それはどうも、と答えた。
この野郎。
私は内心の怒りを押し殺して、努めて平静を装った。
あれから、いったんジェノヴァに寄港。
セビリアでもらった恩賞を皆で山分けすると、一人頭でも一生とは行かないが5年は遊んで暮らせる金額になった。
そこで、いったん船員達はジェノヴァで解散し、各々自分の生活に戻らせることとした。
しばらく遊んで暮らそうというもの、郷里に帰るもの、いろいろだ。
あの気の弱そうなコックは、ジェノヴァで酒場をやろうという話なので、また機会があったら寄ってみたいと思う。
そして、私は新たに雇った水夫とともに、ヴェネチアに戻ってきた。
元はと言えば、このモチェニーゴ官房長官殿が持ってきた話である。
報告をしておかなくてはなるまい。
そして、言いたいことが山ほどあった。
……報告を終え、コーヒーを飲み干すと、モチェニーゴは、まあ、しばらくはヴェネチアで疲れを取っていけよ、と俺の肩を叩く。
私は、笑顔……きっといやあな笑顔だったと思うが、ともかく笑顔を浮かべて、フィリッポ=ピガフェッタって男を知ってるか、と私はモチェニーゴに聞いた。
ああ、さっき出てきた手記の作者だろう、と、とぼけたことを言う。
それはアントニオ、だ。
フィリッポ=ピガフェッタは人文学者にして軍人…そして、アントニオ=ピガフェッタの息子である。
この間のレパントの海戦でも砲術の知識で活躍してる。
そう言うと、モチェニーゴは、ああ、そうだったな、とまるで人ごとのように言う。
。。反トルコの旗手として、レパントを率いた男の台詞ではない。
私は、モチェニーゴの首を絞めたい誘惑に駆られながら、話を続けた…。
分からないことが何点かある。
1.何故、他に腕の良い航海者がいるにもかかわらず、私が世界周航艦隊に推薦されたのか。
モチェニーゴは笑顔で、それはお前の腕が良いからさ、と答えた。
2.何故、このタイミングでディエゴ老人は手記の捜索を考えたのか。また、何故、マゼラン提督と縁のある私にエレナを託したのか。
モチェニーゴは笑顔で、それは偶然さ、と答えた。
3.ディエゴ老人は、マニラのレガスピと連絡を取ったり、俺に前金を払ったりしているが…エレナは自分で、炊事をしていたそうで、さほど豊かな暮らしぶりではなかった…その生活の中で、そう言った資金をどうやって調達したのか。
モチェニーゴは笑顔で、それはへそくりさ、と答えた。
殴るぞ、と私は言った。
モチェニーゴは、野蛮だな、と答えた。
私は呆れ顔でソファーに体を預けた。
私が言っているのは、ようするに、手記の話を裏で嗅ぎつけ、使えそうな駒を揃え、ディエゴ老人を焚き付け、さらに彼に資金援助をしてその気にさせた『黒幕』がいるんじゃないか、と言うことだ。
なあ、黒幕、と私は言った。
モチェニーゴはしばらくコーヒーをかき混ぜながら、黙っていたが、やがてニイッと笑って、いつ気が付いた、と言った。
マニラでレガスピのところに行ったあたりだ、と私は答えた。
妙に連絡が行き届きすぎてるんじゃないか、と思ったのだ。
それに加えて、エレナのロザリオ……彼女がマゼラン提督の娘だという事実。
あまりに出来すぎている。
予想が確信に変わったのは、ジェノヴァに帰ってきて調べてみると、アントニオ=ピガフェッタの息子が、砲術家としてレパントに参戦……モチェニーゴ官房長官の下で働いていた、と言う事を知った時だ。
モチェニーゴは、いいぞ、それでこそだ、と嬉しそうに拍手した。
私は渋い顔で、何が目的だったんだ、と尋ねる。
モチェニーゴは、別に、と答えた。
ただ、部下の親族の無念を晴らしてやろうと思ったのさ、と。
殴るぞ、と私は言った。
モチェニーゴは、乱暴だな、と憤慨したような抗議を上げる。
私は、じっとモチェニーゴを見つめた。
モチェニーゴはしばらく瞑目して黙ったままだったが、やがて、秘密だぞ、と呟いた。
私は約束する、と答えた。
エルカノはやりすぎたんだ。
剃刀のような笑みを浮かべて、モチェニーゴは言った。
エルカノは香料諸島の経営にあまりに積極的だった。
その収益が自らの懐にはいるのだから、無理はない。
だが、香料諸島からの直接交易が盛んになれば、ただでさえ打撃を受けているヴェネチアの東方貿易がさらに打撃を受ける。
なんとか手を打たなくては、と思っている時に、ピガフェッタから、手記の話を聞いたのだという。
初めは単なる噂だと思ったが、調べてみると信憑性があった。
そこで思い出したのが、マゼラン提督と因縁のある私、だ。
…私は呆れた顔をしていたのだと思う。
モチェニーゴはそんな顔をするなよ、謝るから、と悪びれない顔でそう言って、またコーヒーを口に運んだ。
…まったく…だ。
私を使う気になったのも、元々ジェノヴァ人で、なおかつ密輸商の悪名高い私なら、いざイスパニアともめた時も、一航海者の暴走として処理してしまうのが簡単だと思ったからじゃないか…私がそう尋ねると、モチェニーゴは、はは、と曖昧な笑顔を見せる。
その額に少々汗が光っていたのを私は見逃さなかった。
やれやれである。
私はエルカノが少々哀れになってきていた。
必死に航海をして帰り、香料諸島の仕事を熱心にしすぎたばっかりに、こんな腹黒い男の陰謀の餌食になるのだと。
モチェニーゴは、エルカノは、やはり航海者だったのさ、とすました顔で言う。
航海者ではあっても、政治家ではなかった、と。
タベラ枢機卿も、やはり政治家と言うより、宗教界の方だ、とも言う。
まるで嘲笑うように。
恐ろしい話である。
私は大きくため息を吐いた。
これで、おおむねの謎は解けた…。
が…しかしな、とモチェニーゴは続けた。
お前が、手記だけじゃなく、航海の途中に攻撃を受けたことを暴露すれば、エルカノは名実ともに転落しただろうに、何故そうしなかったんだ、と責めるように言う。
…確かに、そう言う選択もあった。
だが、私は手記のみをタベラ枢機卿に渡したのみで、エルカノの攻撃については一切喋っていない。
そのため、まだ名目上はエルカノの名前は生きている。
モチェニーゴとしては、完膚無きまでにエルカノを葬って欲しかったのだろう。
私は首を振った。
エルカノは確かに汚い手を使ったが、それでもテルナーテから先の地獄の航海を切り抜けてセビリアに戻ったのは、やつの力だ。
その地獄…それを越えた男にふさわしい名誉は、その手に残されてしかるべきではないかと、私は思う。
それが俺のやり方だ、と肩をすくめる。
いつもの、ルール、と言うやつか、とモチェニーゴが尋ねてくる。
そうだ、と私は答えた。
しかし…。
お前や、オルオセロがこうやって多少反発したところで、早晩このヴェネチア共和国は滅びるぞ、と、こんどは私が言った。
ヴェネチアの民は移り気で、あまりに享楽的だ。
ヴェネチアの夕焼けが美しいのは、滅びに向かっているからではないかと思うこともある。
滅び行くものは美しい。
だが、後200年は保たせるさ、と、モチェニーゴは胸を張ってニッと笑う。
それに、ヴェネチア共和国が滅んでも、ヴェネチアが滅ぶ日は来ないだろうと、彼は続けた。
不滅の水の都ヴェネチアのため、どんな汚い手でも使うのが、俺のやり方だ、と今度は彼が肩をすくめてみせる。
ルール、と言うやつか、と私は尋ねた。
そうだ、と彼は答えた。
私は、もう一度大きくため息を吐いた。
人差し指で、モチェニーゴの胸をどすん、と突く。
乱暴な、と非難の声が上がる。
私は、これで今回の件はケリだ、と言った。
モチェニーゴは、それならいい、と頷いた。
続けて、私は一枚の紙を彼の前に投げた。
請求書である。
なんだこれは、と彼が怪訝そうな声を出した。
見ての通り請求書だ。
私がセビリア沖で海に捨てた香辛料と『捨て錨』で破損した『花の聖母マリア』号の修理費である。
なんだこれは、こんなもの払えるか、とモチェニーゴが叫ぶ。
馬鹿野郎、元はお前のところから出た話なんだからお前が払え、と私は叫び返す。
…そう、航行費自体は赤字なのだ…………。
気でも違ったのか、とモチェニーゴ。
今違った、と私。
と…あまり大きな声を出したので、隣室からのドアが開き、ロクサーヌがどうかしましたか、と顔を見せた。
私とモチェニーゴは慌てて肩を組むと、友情を深めあってたんだ、と答えた。
ロクサーヌが、そうですか、と言って隣室に戻る。
途端。
私とモチェニーゴはお互いを突き放しあって、口論の続きをはじめた…………………………。
…かたつむり枝に這い、神、天にしろしめす、すべて世は事もなし。
『ルール61 <返済は計画的に>』
by Nijyuurou
| 2007-10-09 00:17
| 『Circumnavigation』