『あの男』
2008年 10月 11日
南大西洋上、『花の聖母マリア』号
雨天、東の風。
セビリアを出航し、一路、南米へ。
途中マディラ島へ寄港して、そのまま南西へと舵を取る。
サンファンかサントドミンゴを経由する航海者も多いそうだが、交易所に用のない私にとって、カリブ海への寄港は、あのあたりにひしめいているか遺族達との摩擦を招くばかりで、得る物のない寄り道だ。
それよりも、真っ直ぐ南米を目指した方が、益がある。
まだ外洋になれない航海者ならば、目印のない海上をウロウロすること自体が不安なものなのだろうが、私達にとっては慣れた航路である。
幸い風には恵まれ、ノンビリとした航海が続いたが、雨が降り続いている。
陸の上でも海上でも長雨というのは嫌なもので、見張りを残して、多くの船員は船内に入ったきりになっている。
……一つ自慢がある。
多くの軍船や、一部の商船は武器、商品の積載を確保するため、船員の居住空間がひどく限られる事が多く、狭い船室に何人もの水夫が詰め込まれ、ハンモックで眠る生活を強いられるものだ。
だが、我が『花の聖母マリア』号は武器、商品を積むスペースを極限まで削ってあり、代わりに船員の居住空間を最大限まで広げてある。
その上、その広い船室がフルに活用されることはまずなく、大体4人分のスペースを一人の船員が使う、と言う、通常では考えられない贅沢が、日常的に行われている。
私は私で、ガレオン船なみの広い船長室兼作戦室を確保しているし、副官用の個室も3室確保されている。
それもこれも、価値の高い品物をごく少量積んで、素早く移動する、というこの船の特性のおかげだが、おかげで気持ちにゆとりは出来るし、疲労も押さえられる。
長雨の時等、船員達が船室に入ったままになるのと、週一度の船室の清掃が義務づけられるのは、良し悪しではあるが……。
さて、それはさておき………。
特に問題もなく、ブエノスアイレスへと到着。
ウシュアイアに向かうための補給を行うため、一時上陸した。
出航所に顔を見せたのだが、前回来た時に会った、あの気の弱い出航所の役人は姿が無く、代わりにまだ若い役人が元気に働いていて、てきぱきと補給手続きをしてくれる。
書類に記入をしながら、マゼラン提督の話をすると
等と、教えてくれたが……実は、前回の航海の時に聞いた話だ。
ただ、せっかく教えてくれるのであるから、私は何も知らないふりをして、感心しながら役人の話を聞いた。
こうして得られる情報の中には、使えるものもある。
例えば、一年ほど前、美しい女船長の率いる船が、この港を歴て世界周航を成功させたこと。
………うちの船のことだ。
美しい、と言う辺りに反応して、ロクサーヌがもじもじくねくねとしていたが、その辺りは見なかったことにする。
そして、ガルシア=ホフレ=デ=ロアイサ提督の率いる船団が、世界周航を期して、件の海峡を抜けていったと言うこと。
今だ、イスパニアの外洋に対する野望は衰えるところを知らない、と言ったところだろうか。
……そうこうしている間に、補給も終わる。
別れ際、出航所の役人は
不安そうにそう忠告をくれた。
私はニイッと笑うと、ああ、みるだけにしておく、と殊勝に答える。
役人は爽やかな笑顔で、そうした方が良い…ガルシア提督の船のように、あの海峡を抜けたことがある水先案内人がいるなら、話は別だが……そういった。
私はなんの気無しに、その水先案内人って言うのは、と役人に尋ねる。
役人は何故か得意げに、かの有名な、ファン=セバスティアン=エルカノ様が、ガルシア提督の船の水先案内人を務めているんだよ、と答えた。
私は目を剥いた。
隣で、ロクサーヌが息を詰めたのが分かる。
エルカノ………?
あの男が、何故?
様々な思考が頭の中を駆けめぐる。
おそらく、ロクサーヌもそうだったのだろう。
様子の一変した私達に役人が、どうかしましたか、と心配そうな声を掛けてきた。
なんでもない、と、私達は答え、言葉少なに船へと戻った。
………パタゴニアから吹き付けてくる強い風に乗って、『花の聖母マリア』は快調に南へと航行する。
快調ではないのは、私とロクサーヌだ。
マイクロフトも驚くと思ったが、彼は、エルカノの話を聞いて、暫し瞑目して考えると、私は何となく分かる気がしますね、と呟くように言った。
どういう事だ、と尋ねた私に、マイクロフトは静かに笑って答えなかった。
…ともかく、エルカノの行動が私達には掴みかねた。
確かに、エルカノは、かつてのように栄光を一身に集めることはなくなった。
しかし、その権威が完全に地に落ちたわけではない。
航海者、そして投機的な商人達の間では、エルカノ、の名は世界周航を成し遂げた偉大な航海者の代名詞であり続けている。
その名前を持ってすれば、利益を生むインド、そして香料諸島への航海に一枚噛むことも、難しいことではないはずだ。
それなのに、何故、再び世界周航航路へ向かうのだ……。
私達の前に、あの海峡が広がっている。
以前、この海峡を抜けた時と同じく、空は暗く、強い風が凄まじい勢いで雲を運んでいく。
だが、この海峡の向こうには、さらなる地獄が広がっている。
それを知らないエルカノではないはずだ。
何故、それを知りつつ、再びこの航路に戻ったのか。
航海者達の間では、マゼラン提督の名を取って、マゼラン海峡、と呼ばれるようになった海峡。
その海峡をあの男がどんな気持ちで抜けていったのか、私達は計りかねていた。
<ルール・居住空間は大切に。>
雨天、東の風。
セビリアを出航し、一路、南米へ。
途中マディラ島へ寄港して、そのまま南西へと舵を取る。
サンファンかサントドミンゴを経由する航海者も多いそうだが、交易所に用のない私にとって、カリブ海への寄港は、あのあたりにひしめいているか遺族達との摩擦を招くばかりで、得る物のない寄り道だ。
それよりも、真っ直ぐ南米を目指した方が、益がある。
まだ外洋になれない航海者ならば、目印のない海上をウロウロすること自体が不安なものなのだろうが、私達にとっては慣れた航路である。
幸い風には恵まれ、ノンビリとした航海が続いたが、雨が降り続いている。
陸の上でも海上でも長雨というのは嫌なもので、見張りを残して、多くの船員は船内に入ったきりになっている。
……一つ自慢がある。
多くの軍船や、一部の商船は武器、商品の積載を確保するため、船員の居住空間がひどく限られる事が多く、狭い船室に何人もの水夫が詰め込まれ、ハンモックで眠る生活を強いられるものだ。
だが、我が『花の聖母マリア』号は武器、商品を積むスペースを極限まで削ってあり、代わりに船員の居住空間を最大限まで広げてある。
その上、その広い船室がフルに活用されることはまずなく、大体4人分のスペースを一人の船員が使う、と言う、通常では考えられない贅沢が、日常的に行われている。
私は私で、ガレオン船なみの広い船長室兼作戦室を確保しているし、副官用の個室も3室確保されている。
それもこれも、価値の高い品物をごく少量積んで、素早く移動する、というこの船の特性のおかげだが、おかげで気持ちにゆとりは出来るし、疲労も押さえられる。
長雨の時等、船員達が船室に入ったままになるのと、週一度の船室の清掃が義務づけられるのは、良し悪しではあるが……。
さて、それはさておき………。
特に問題もなく、ブエノスアイレスへと到着。
ウシュアイアに向かうための補給を行うため、一時上陸した。
出航所に顔を見せたのだが、前回来た時に会った、あの気の弱い出航所の役人は姿が無く、代わりにまだ若い役人が元気に働いていて、てきぱきと補給手続きをしてくれる。
書類に記入をしながら、マゼラン提督の話をすると
等と、教えてくれたが……実は、前回の航海の時に聞いた話だ。
ただ、せっかく教えてくれるのであるから、私は何も知らないふりをして、感心しながら役人の話を聞いた。
こうして得られる情報の中には、使えるものもある。
例えば、一年ほど前、美しい女船長の率いる船が、この港を歴て世界周航を成功させたこと。
………うちの船のことだ。
美しい、と言う辺りに反応して、ロクサーヌがもじもじくねくねとしていたが、その辺りは見なかったことにする。
そして、ガルシア=ホフレ=デ=ロアイサ提督の率いる船団が、世界周航を期して、件の海峡を抜けていったと言うこと。
今だ、イスパニアの外洋に対する野望は衰えるところを知らない、と言ったところだろうか。
……そうこうしている間に、補給も終わる。
別れ際、出航所の役人は
不安そうにそう忠告をくれた。
私はニイッと笑うと、ああ、みるだけにしておく、と殊勝に答える。
役人は爽やかな笑顔で、そうした方が良い…ガルシア提督の船のように、あの海峡を抜けたことがある水先案内人がいるなら、話は別だが……そういった。
私はなんの気無しに、その水先案内人って言うのは、と役人に尋ねる。
役人は何故か得意げに、かの有名な、ファン=セバスティアン=エルカノ様が、ガルシア提督の船の水先案内人を務めているんだよ、と答えた。
私は目を剥いた。
隣で、ロクサーヌが息を詰めたのが分かる。
エルカノ………?
あの男が、何故?
様々な思考が頭の中を駆けめぐる。
おそらく、ロクサーヌもそうだったのだろう。
様子の一変した私達に役人が、どうかしましたか、と心配そうな声を掛けてきた。
なんでもない、と、私達は答え、言葉少なに船へと戻った。
………パタゴニアから吹き付けてくる強い風に乗って、『花の聖母マリア』は快調に南へと航行する。
快調ではないのは、私とロクサーヌだ。
マイクロフトも驚くと思ったが、彼は、エルカノの話を聞いて、暫し瞑目して考えると、私は何となく分かる気がしますね、と呟くように言った。
どういう事だ、と尋ねた私に、マイクロフトは静かに笑って答えなかった。
…ともかく、エルカノの行動が私達には掴みかねた。
確かに、エルカノは、かつてのように栄光を一身に集めることはなくなった。
しかし、その権威が完全に地に落ちたわけではない。
航海者、そして投機的な商人達の間では、エルカノ、の名は世界周航を成し遂げた偉大な航海者の代名詞であり続けている。
その名前を持ってすれば、利益を生むインド、そして香料諸島への航海に一枚噛むことも、難しいことではないはずだ。
それなのに、何故、再び世界周航航路へ向かうのだ……。
私達の前に、あの海峡が広がっている。
以前、この海峡を抜けた時と同じく、空は暗く、強い風が凄まじい勢いで雲を運んでいく。
だが、この海峡の向こうには、さらなる地獄が広がっている。
それを知らないエルカノではないはずだ。
何故、それを知りつつ、再びこの航路に戻ったのか。
航海者達の間では、マゼラン提督の名を取って、マゼラン海峡、と呼ばれるようになった海峡。
その海峡をあの男がどんな気持ちで抜けていったのか、私達は計りかねていた。
<ルール・居住空間は大切に。>
by Nijyuurou
| 2008-10-11 23:12
| 『世界周航後日譚』